ぜんまい仕掛けの宇宙船

−三文小説家見習い・小倉洋の作品置場−

契約

「お前の望みを言え」

 

 深夜0時。安アパートの自室。

 明日、会議に提出する企画書の作成でテンパっている俺の傍らに、見知らぬ男が立っていた。

 紫色のスパンコールジャケットに白のパンタロンという、大昔の演歌歌手のような出で立ちの男が、人間でないことは俺にもすぐに理解できた。なにしろ首の上に乗っているのはハエの頭なのだから。ハエ頭の人外魔物といえば、ハエの王・ベルゼバブか某SF映画に出てきた、物質転送装置の中でハエと融合してしまった間抜けな主人公と相場は決まっている。

 

 照明を落とした部屋の中で小ぶりな炬燵《こたつ》の上にノートパソコンを開き、書きかけの企画書と無慈悲に点滅するカーソルを前に唸っていた俺は、男を見上げながら力いっぱい気怠《けだる》そうに応えた。

「誰だ、お前?」

 男は、どこで鳴っているのかよくわからない、軽薄なBGMに合わせて答えようとした。

「我が名はベルゼba……」

ベルゼバブだろ。知ってるよ」

「ブーーッ!」

 あ、こいつスベったフリしながら、ちゃっかりと炬燵で温まってやがる。感心なことに正座だ。

「……人間よ、お前の望みを言え。さすれば一つだけ叶えてやろう」

「望み? そうだな……彼女はいるし、カネは……朝になったら葉っぱ……なんてのはゴメンだから遠慮しておこうかな」

「我はハエの王なり。タヌキの王ではない。お前の望みを言え」

「わかったよ。今考えてるからちょっと待て。落ち着きのない奴だな……そうだっ!」

「決まったか?」

「あぁ、俺の望みを言ってやる。いいか? 明日、俺が会社に資料を提出しなくても良いようにしてくれ。もちろん、出世には一切響かないようにだぞ」

 ベルゼバ……面倒臭いから、ここからは「ベル公」でいくことにする。ベル公は腕組みをして、ハエ頭を前後左右に忙しく揺らしている。どうやら悩んでいるらしい。

 

(どうせ出来やしないのだ、せいぜい悩むがいい)

 そんな意地の悪いことを俺は考えながら奇妙な男を眺めていたが、不思議とこの非常識な状況をいぶかる気持ちや嫌悪感は湧いてこない。

 ほどなくベル公が口を開いた。

「つまりお前の望みは、出世を思い煩うことなく、明日、会社に書類を提出せずに済めば良いのだな?」

 なんだ? こいつはそんなアクロバティックなことが出来るとでもいうのだろうか?

 

「あぁ、そうだよ。同じことを二度言わせるな」

「虫の良い奴だな」

「五月蝿《うるさ》い」

「ならばお前は我と契約する必要がある。契約せよ」

「『せよ』だと? 気に入らないな……言葉遣いがなってない。言葉遣いは営業の基本だぞ。お前が契約して欲しいと言うなら、俺は客ってことだよ?」

 ベル公の顔の上にに「タジタジ」という大きな文字が浮かんだような気がしたが、きっと気のせいだろう。

 

「け、契約してくれれば、今ならこの洗剤をお付けしてやる……です。しかもご主人、この洗剤は服だけでなく、なんと! 心まで真っ白になってしまうという、悪魔的にはいまいましい豪華粗品で……」

 ベル公め、急に口調が丁寧になったと思ったら、揉み手までしてやがる。そういえばハエっていつも揉み手してたっけ。

 そこそこ長い俺の営業経験が、賛美歌「諸人、今こそ畳みかける時」を頭の中で大合唱し始めた。

「洗剤だけ? サービス悪いんじゃない? こないだ来た、妙に色が白くてやたらと濃い顔したミカエルとかいうやつは、巨人戦のチケットも置いてったよ……ってか、天使みたいなセールストークしてどーすんだよ、オマエ」

「…………」

 

(勝った)

 勝利を確信した俺は、無言の勝利宣言をするためにパッケージからタバコを一本抜き出して火を点けると、いかにも勝ち誇ったようにゆっくりと吸い込み、そして紫煙をベル公の大きな目玉に吹きかけてやった。ハエ頭め、器用に複眼から涙を流してやがる。洗剤ごときで悪魔と契約など結んでたまるものか。

 

「ゲホゲホゲホゲホゲホゲホゲッ……ちょっと……止めてくださいよ。副流煙が一番健康に悪いの知ってるでしょ」

 健康志向の悪魔なんて初耳だ。

「じゃあ、もう少し色付ければ……そうだな、ビール券くらい置いていけよ。そうすれば三ヶ月だけ契約してやる。次はもっとサービスしないと切るからな」

 あ、こいつ今、嫌な笑い方をした。目が笑っている。複眼のくせに器用な奴だ。

 

「契約完了」

ベル公がそう言いながら紫色のスパンコールジャケットの襟をちょっと直し、気取ったポーズで両手の人差し指と親指 をパチンパチンと鳴らしはじめると、あたりは場末の劇場を思わせる白いスモークと赤、黄色、緑の安っぽいカクテルライトの光で満たされていった。

 

 気がつけば俺は、真っ赤なスパンコールジャケットを身につけ、見知らぬ男の傍らに立っていた。男は机の上のモニターを唸りながら睨みつけキーボードを叩こうとしているようだが、その指がピクリとも動かないところを見ると、売れない小説書きかもしれない。

 

 突然、俺は明日の会議も会社での出世も心配する必要など無いことを悟ると、揉み手をしながら男に話しかけた。

 

「お前の望みを言え」