ぜんまい仕掛けの宇宙船

−三文小説家見習い・小倉洋の作品置場−

あなたのそばに

「いらっしゃい」
 もうすっかり顔馴染みのマスターが、いつもの優しい声で迎えた。
「この雨で、桜もすっかり散ってしまいます」
 グラスを磨きながらそういうマスターは、少し雨に濡れた彼女の髪や肩に目をやると、乾いたハンドタオルを手渡した。
 JR千葉駅からほど近いこのカジュアルなバーのドアをくぐり、まだ客のいないカウンターのスツールに腰掛けながら彼女は答えた。

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「桜ももう終わりね。今日はトムコリンズをもらおうかな」
「かしこまりました」

 

 彼女は決して酒が嫌いではないし弱くもないが、仕事帰りの一杯は文字通り「一杯」と決めている。ダラダラとけじめなく飲んでしまいそうな自分が怖かったのだ。そんな時に、時間をかけて楽しめるトムコリンズというロングカクテルは、うってつけの相棒になる。それに、このカクテルをオーダーしたということは、普段よりも長居をしたいという彼女の気持ちの顕《あらわ》れに他ならなかった。

 

 リズミカルにシェーカーを振るマスターの手元を見るともなしに見ながら彼女は、昨日の日曜、昼過ぎの出来事を頭の中で再生していた。
「お待たせしました。トムコリンズでございます」
 その言葉に脳内再生を中断された彼女が、軽く微笑みながらグラスを受け取り一口飲むと、頭の中ではふたたび再生が開始された。

 

 昨日の昼すぎ、両親と一緒の昼食を終えた彼女が居間でくつろいでいるところへ、近くに住む叔母が嬉々として見合い話を持ってきた。彼女は子どもの頃からこの美しい叔母が好きだったが、彼女が二十五歳を過ぎた頃から、明らかにこの手の話を持ち込む頻度が増えたのは
(珠に疵《たまにきず》というものよ)
と思っていた。
 どこの家庭でも親戚を見渡せば、この手の世話好きな叔母の一人や二人いるだろう。

 

「ねえマスター、聞いてくれる?」
「はい?」
 彼女はカクテルをゆっくりと味わいながら、昨日の出来事を言葉を選びつつ語った。
「…‥というわけなのよ。どう思う?」
 一通り話し終えた彼女は、グラスをピカピカに磨き上げながら悦に入っている目の前の男に訊いてみた。別に人生相談がしたいわけではない。これはバーのカウンター越しに交わされる、ちょっとした世間話にすぎないのだから。
 ただ、カウンターの向こうは自分の実生活とは交わらない『違う世界』だという安心感から、この男になら話してみる気になったのだ。

 

 客が集まりはじめた。いつもの気さくな賑やかさが戻ってきた店内のBGMは、インストゥルメンタルの『Close to you』に変わっていた。彼女が子供の頃に父がよく聴いていたカーペンターズのものではなく、洒落たアレンジのギターソロだ。

 

「貴女《あなた》はどのようにしたいと思っているのですか?」
 少し考えていたマスターが逆に訊き返してきた。
「そうね……まだ、結婚には早い気がするわ」
「なるほど」
「というか、今は仕事が面白くてしかたないのよ。もうしばらくは仕事を優先したいというところかな」
「でもこの先、彼氏も作らず仕事一筋のワーカホリックになりたいわけではないですよね? いい女が勿体ないです」
(そりゃそうよ。こんなにいい女が若い身空で、女ヤモメやイカズ後家でいて良いわけないわ)と彼女は心の中でカクカクカクと首を激しく縦に振った。
「知り合うきっかけが偶然の出会いかお見合いかの違いだけで、そこから始まる恋愛というのもありだと思います」
 この、父親よりも年上の、老人と言っても良い男の言葉を聞くうちに
(それもそうだ)
と思うと同時に、まだ会ったこともない男のパンツを洗っている自分の姿が、急に頭の中に浮かんでは消えていった。

 

「マスター……テキーラサンライズ、お願いします」
(もう一杯だけ。これを飲んだら叔母さんに電話しよう)
 なんだか今夜は気持ちよく酔えそうな気がした。

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【あとがき】
 こんにちは。三文小説家見習い・小倉洋《おぐらよう》のショートショート第四作目です。

 今回はテーマを「バーのカウンターでの他愛もない世間話」のつもりで書きはじめたら、いつの間にかお見合い話になってしまいました(笑)

 お見合いといえば、筆者は若い頃に一度だけお見合いをしたことがあります。
 仕事上の義理でどうしても断ることができなかったのですが、当時、結婚の「け」の字も考えていなかった筆者は、相手の女性と会ってしまいました。そもそも結婚する気もないのにそういう席に顔を出すのは、止むに止まれぬ事情とはいえ、相手の女性に対して大変失礼な「若気の至り」だったわけです。今考えれば、冷や汗がにじむような話です。


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『Close to you』はカーペンターズの持ち歌として有名ですが、今回は筆者が好きなギタリストのトミー・エマニュエルがプレイしたものをご紹介します。
『ミスターギター』とあだ名されるトミー・エマニュエルは、メロディーと伴奏を一人でプレイする『フィンガースタイル』の名手として知られるおじいちゃんで、動画で気がつく方もいらっしゃるかと思いますが、作中のバーのマスターは彼がモデルです。
 酸いも甘いも知り尽くした老人の一言から、少しだけ人生の軌道修正をした『彼女』を感じていただけたなら、筆者の目論見は成功です。

 ちなみに、『あなたのそばに』は、この小説を書くに当たって私が勝手に付けたもので、正式な邦題は『遥かなる影』となっています。カーペンターズのバージョンは以下からどうぞ。

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 尚、本作品はカクヨム様でも公開させていただいています。

https://kakuyomu.jp/

 それでは次の作品でお会いしましょう。