ぜんまい仕掛けの宇宙船

−三文小説家見習い・小倉洋の作品置場−

霧よ

 間欠ワイパーの規則的な動きがフロントウィンドウの水滴を拭って ぬぐって も、近くの車のテールライトが赤くにじ むほどに霧が濃い。
 1978年型フォード・ブロンコというアメリカ製4WDの、淡いクリーム色をした巨体を季節外れの海水浴場の駐車場に乗り入れた彼女は、手前のコンビニで買ったばかりの熱いドリップコーヒーを備え付けたドリンクホルダーから手に取り一口飲むと、一緒に買ったアップルパイをかじり始めた。
 紙コップには、健康的に日焼けした彼女の顔立ちによく似合うオレンジ系のリップが薄っすらと残った。

Ford Bronco

 アップルパイをすっかり食べ終えた彼女が少し残ったコーヒーのカップを置き、ダッシュボードからスマートフォンを取り上げ画面を何度かタップすると、きっかり二回のコールで彼が出た。

「おはよう。こんな時間に起こしてごめんね」

「おはよう。なかなかどうして……悪くないモーニングコールだよ」

「寝起きの良さは数多いあなたの長所の一つよね。ごめんね、どうしても声が聞きたくなっちゃったのよ」

「寝起きの悪さは数多い君の凶器の一つだからな。何度蹴飛ばされて目を覚ましたことか」

「こらこら、起き抜けに変なイヤミは言わないで。さて、わたしはどこにいるのでしょう」

「どこにいるんだい」

「ここは――九十九里町の海岸ね。海水浴場のパーキング」

「この時期じゃ、まだ海の家もできていないだろう」

「うん、ガラガラだわ。今いるのはサーファーだけ」

「なんでこんな時間にそんなところに」

「昨夜、仕事から帰ってお風呂に入ったのね」

「うん」

「そうしたら、湯船の中で突然『海岸で日の出が見たい』って思っちゃったのね」

「うん」

「そして今に至る――というわけよ」

そう言うと彼女はケラケラと屈託のない笑い声をあげた。

「なるほど。君らしいと言えば、実に君らしい」

 彼は、日ごろ彼女が見せる奔放とも言える行動を思い出し、少しばかり苦笑混じりにそう答えた。

「それで、そちらの天気はどうだい。最高の日の出が見られそうかな」

「霧よ。それもすこぶる付きの濃霧」

 電話の向こうからは、彼の笑い声が聞こえてきた。

 すっかり冷めたコーヒーを飲み干した彼女は、ルームミラーに映る自分に向かって微笑みながらゆっくりとリップを引き直した。

 朝日があたりを照らし始めている。霧もじきに晴れるだろう。

 


【あとがき】

 はじめまて。三文小説家見習い・小倉洋おぐらようです。この度は、数ある少説の中から本作品をお選び頂き心より感謝申し上げます。

 処女作であるこの『99ガールズ』シリーズは、九十九里浜と千葉県各所を舞台にしたローカル小説であり、さまざまな「彼女」たちのショートストーリーであり、また、小倉洋の実験の場でもあります。なので、中には読むに耐えない変竹林なものも交じると思いますが、其辺は広い心をもって笑って許してください。

 『霧よ』は、エロル・ガーナー(Erroll Louis Garner)作曲の『Misty』にインスパイアされて書きました。

 ジャズ好きならご存じの方も多いと思いますが『Misty』には有名な逸話がありまして、エロル・ガーナーが乗った旅客機の着陸が近づくと、機内ではスチュワーデスが客席を回りながらシートベルトの着用を促していました。近づいてきたスチュワーデスにエロルが到着空港の天候を尋ねると、彼女は一言「Misty(霧よ)」と言ったとか。この一言に触発されて出来上がったのがこの曲というわけです。


Ella Fitzgerald - Misty

 さて、そんな逸話のあるとても繊細なジャズの名曲と、無骨で巨大なアメリカ製4WDを乗り回す「彼女」との対比は上手くいったでしょうか。

 

【追記】

2021/01/05 カクヨム様で公開させていただきました